So-net無料ブログ作成
検索選択
前の10件 | -

息子のお弁当 [感動]

スポンサードリンク








誰にでも好き・嫌い、得意・不得意があると思います。
私は料理の才能がまるでないようで、はっきり言ってしまえば苦手と言うよりも「嫌い」と言っても良いのではないでしょうか。
掃除、洗濯もあまり好きではありませんし、「家事全般」において不得意だと言えるでしょう。

それでも結婚してなんとかそれなりに出来るようにはなりました。
やはり女に生まれたからには主人の健康はきちんと守ってあげたいものですし、まさか主人に家事も仕事も押し付けるというのでは立場がありません。
自分なりに出来る料理を色々工夫してやれるように苦心してきたつもりです。


そして月日は流れ、私にもかわいい男の子が生まれました。
初めての妊娠と出産を経験して生まれたその子は目に入れても痛くないくらいかわいい存在で、家族三人で慎ましくも幸せに日々を送っていました。


息子もすくすくと成長し、幼稚園では仲の良いお友達や優しい先生に囲まれて毎日楽しく過ごしていました。
そんなある日、息子が珍しく暗い顔つきで帰ってきたのです。
何があったのか聞いても答えてくれず、それでも夕方になる頃にはすっかりいつもの息子に戻っていたのであまり気にもとめませんでした。

しかし、それからも忘れた頃にまた暗い顔で帰ってくるようになったのです。
例のごとく聞いても答えてくれず、時間が経つと普通にテレビを見て笑っている息子。
それでも何度かそんなことがあったので、私も心配になってきました。
そこで、幼稚園の連絡ノートで担任の先生に「息子に最近変わった様子はなかったか」聞いてみることにしたのです。


翌日、普段と変わらない様子で幼稚園から帰ってきた息子。
気にしすぎだったかな…?と思いながら連絡ノートを見てみました。
昨日は月に一度のお弁当の日だったのですが、息子は自分のお弁当を隠すようにして食べていたようだったと書かれてありました。


それを見てハッとしました。
息子が暗い顔つきで帰ってきていたのは、そういえばいつもお弁当の日だったのです。
きっとお弁当に何か理由があるのだということに気が付いた私は息子にそれとなく聞いてみることにしました。


息子は始め、何も答えようとはしませんでした。
「なんでもない」の一点張り。
それでもゆっくり話して聞かせてくれた答えはこうでした。

周りのお友達のお弁当はみんなカラフルで色々なキャラクターになっていたりして、見ているだけで楽しそうなお弁当なのに、自分のお弁当はまるで「お父さんのお弁当」みたいで恥ずかしいのだと。
だけど、それを私に言ったら私が傷ついてしまうだろうと思い、じっと我慢していたようなのです。
お友達がお弁当を見せ合ったり交換しあったりしているのが羨ましいけれど、そんなことを言ったらわがままだろうと感じていたと息子。

口に出して言ってしまったことで息子は自分を責めたのでしょう。
大粒の涙をぽろぽろこぼしながら「お母さんごめんなさい」と謝ってきました。



スポンサードリンク









そんな思いをさせてしまっていたことに、私も心から息子に悪い事をしたと思いました。
そして、その日から私の「お弁当の練習」が始まったのです。

本屋さんから「かわいいキャラ弁」の本を数冊購入、また、ネットでも色々研究しながら毎日お弁当の中身を練習しました。

卵焼きは切り方次第でハートや星に出来ます。
野菜もただ茹でただけ、炒めただけではなく、海苔で飾り付けしたりチーズを貼り付けたりすることで動物やキャラクターに変身です。

どれも細かい作業が多く、お弁当作りと言うよりは工作のようなものだと感じました。
それでも息子がもう幼稚園のお弁当の日に肩身の狭い思いをすることがないようにと毎日練習を続けました。

そしてまた、お弁当の日がやってきました。
前日遅くまでかかって下ごしらえをし、朝早くから調理したお弁当。

今まで練習を繰り返してみましたが、やはり自分のセンスのなさと言うものは完全に払拭することはできませんでした。

それでも、目に鮮やかなお弁当に仕上げることができました。
それを持たせて息子を幼稚園に送りだしたのです。

これで今日は少しでも楽しいお弁当の時間が過ごせるようにと祈りながら。

そして、夕方。

幼稚園から帰ってきた息子は、なんだか照れくさそうな顔をしながら、それでも笑顔で帰宅しました。
私のところへ駆け寄り、かばんから誇らしそうに空になったお弁当箱を出してくれた息子。

今日のお弁当はどうだった?と聞いてみると、今までで一番楽しいお弁当の時間だった、と、満面の笑顔で答えてくれたのです。


それからは息子の「お弁当リクエスト」が聞かれるようになり、なんだか辛口の評価までつけてくれるようになりました。
考えてみると、息子の為にお弁当を作ってあげられる期間と言うものは、思っている以上に短いのかも知れません。

それまでの時間、下手な料理でも愛情込めて一生懸命に作ってあげたいな、と思っています。
なんとなく、すこしずつお料理が好きになってきたかな…?そんな風にも思えるのでした。


キャラ弁.jpeg


スポンサードリンク






nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

祖母のおにぎり [感動]

スポンサードリンク








私の両親は共働きで、父親は会社の重役と言うこともあり、小さい頃から単身赴任や出張で忙しく飛び回っていました。
母親は製造関係の会社に長く勤めており、そこでのリーダーを任されるなどで残業も多く、そんな両親に代わって私の面倒を見てくれたのが祖父母でした。


私には弟が一人おり、家に帰ると決まって祖母がおやつ代わりに作ってくれる大きな大きな「おにぎり」を一緒に食べるのが楽しみのひとつでした。
祖母が作るおにぎりには具は入っておらず、シンプルにごま塩をまぶして海苔で巻いた素朴なものでしたが、そのおにぎりがとても美味しいのです。

母が作るおにぎりとはまた違い、なぜ祖母の作るおにぎりはこんなにおいしいんだろう?と、いつも不思議に思っていました。

ある時など、母が作ったおにぎりをひとくち食べて、「ばぁちゃんのおにぎりの方がおいしい」と言ってしまい、母を激怒させてしまったこともありました。
子供の素直さというものは、時に残酷なものなのだということが、今になって身に染みて分かるような気がします。


私たちが家に帰ると、いつも祖母は畑で野菜を育てるのに精を出していました。
夏は一緒にトマトに水をやり、とうもろこしを採って茹でたてをガブリ。

外で食べる夏野菜の美味しいこと美味しいこと。
縁側で弟と二人並んで野菜を食べている姿を、微笑みながら見ている祖母のあの陽だまりのような笑顔は、当時の私たちをどれだけ安心させてくれたことでしょう。
忙しい両親に代わり、私たちを育ててくれた祖父母でした。


幼馴染が遊びに来ると、決まって祖母のおにぎりを食べたがりました。
祖母のおにぎりの美味しさは折り紙つきでしたので、私の自慢でもありました。


しかし、私にもいわゆる「思春期」という時期がやってきて、だんだん祖母の優しさが疎ましさに変わっていってしまったのです。
なんにでも口をだしてくるところ、部屋にノックをしないではいってくるところ、曲がった腰…。

とにかく、些細なことが目に付くようになりました。
中でも私が一番嫌がったのが、例の「おにぎり」でした。

年齢的にダイエットという言葉にも敏感になり、また、交友関係が広がったことで他の家で出てくるお菓子の美味しさに気が付いてしまったのです。


スポンサードリンク








ある日、知人が家に遊びに来た時のことです。
当然ながら、祖母はおにぎりを私たちに作って持ってきてくれたのですが、それがとても恥ずかしく思えてしまった私。
「そんなものいらない!!恥ずかしいからばぁちゃんは来ないで!!」と、部屋から強引に押し出してしまったのです。

あとから「なんてひどいことを言ってしまったのだろう」と後悔しましたが、どうしても謝ることが出来ません。
その時の祖母の顔が、なんども頭に浮かんできました。

祖母がその時作ってくれたおにぎりは、弟が何も知らずに喜んで食べたということが唯一の救いのように思えました。


それからというもの、祖母はおにぎりを作らなくなってしまいました。
変わりにわざわざスーパーまで行って、色々なお菓子を買ってきては黙って部屋の机の上に置いていってくれるようになったのです。
私はますます謝るきっかけをなくしてしまい、そのまま時は流れていきました。


そんなある日、祖母が脳梗塞で倒れてしまったのです。
幸い、命は助かったのですが、右半身に後遺症が残ってしまいました。
リハビリのおかげでどうにか杖を使って歩けるまで回復したのですが、右手はうまく使えないようになってしまった祖母。
すっかり元気をなくしてしまい、それまで頑張っていた畑仕事も花植えも、一切やらなくなってしまいました。

時々寂しそうに畑を眺め、畑は主に祖父が管理することになりました。


私は、どうにかしてまた以前のように朗らかな祖母に戻って欲しいと願いました。
どうしたら祖母のやる気を再び引き出すことが出来るのか、自分なりに考えました。
そして、ある時、思い切って祖母にこう言ったのです。
「また、ばぁちゃんのおにぎりが食べたい」と。

すると、その日から少しずつではありますが、祖母がまた台所に立つ姿を見るようになったのです。
もちろん、隣には母の姿もあります。

祖母の病気がきっかけでパートになった母は、毎日早く帰宅しては祖母と一緒に台所に立っていました。
そしてとうとう、また祖母のおにぎりを口にすることが出来る日がやってきたのです。


そのおにぎりは、いびつで、以前のようにしっかりとは握られていないようでした。

動く左手でご飯を丸めるように掴み、その手の中で少しずつ形を丸く形成していったのだと、隣で見守っていた母が教えてくれました。

味付けは同じくシンプルなごま塩です。
懐かしいそのおにぎりをひとくち食べたとき、今までの祖母とのたくさんの思い出が一気に蘇ってくるような想いがしました。
涙ぐみながら、「ばぁちゃんのおにぎりは、やっぱりおいしいなぁ」と、ようやく口に出して言うことができた私。

祖母は、また優しそうにニコリと笑ってくれました。


おにぎり.jpg


スポンサードリンク






nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

写真のおじちゃん [感動]

スポンサードリンク








私の母には、弟が居たそうです。
母の実家に行くと、仏壇に飾られた写真の中に、一枚だけまだ幼い少年の写真があるのですが、それが母の弟だと知ったのは、私が随分大きくなってからのことでした。
生きていれば私の叔父にあたるその人を、私は「写真のおじちゃん」と教わってきました。


写真のおじちゃんがどうして「写真のおじちゃん」になってしまったのか。
つまり、どうして若くして命を落としてしまったのかを詳しく聞くことが出来たのは、実は今から数年前のことでした。
母方の祖母が体調を崩して入院してしまったときに、ふと母からこんな話を聞いたのです。

「ばぁちゃんは、息子が亡くなった時に着ていた服を、今も大事にしまってある。自分が死んだときには、それも一緒に燃やして欲しいとずっと言ってきたんだよ。」と。
そのときです。
当時何があったのかを初めて聞くことになったのでした。


その頃、母と弟はちょうど夏休みを迎えていました。
地区の皆で海に海水浴へでかけたのだそうです。
祖母は一人家で留守番をしていました。

子供たちにとって、海は夏休みの醍醐味でしょう。
みんなが思いっきりその日一日楽しみました。
青い海はどこまでも広く、遠くには船が小さく浮かんでいます。
そんな情景が、聞いている私の頭にも鮮やかに浮かんできました。
賑やかな子供たちの声まで聞こえて来るようです。

楽しい時間はあっという間に過ぎ、帰る時が近付いてきました。
母は、近くで泳いでいたはずの弟の姿が見えないことに気が付きました。

引率役の父兄たち、そして海の家の人たちも皆総動員で弟を探したそうです。

そして、立ち入ってはいけない遊泳禁止の岩場の底で息絶えている弟の姿を見つけたのだそうです。

母は、自分の弟の遺体が海から引き上げられる様子を見たのです。

祖母は、元気に朝出かけていったはずの息子を、遺体とういう形で迎えることになったのです。

その時の様子は、とてもじゃありませんが聞けませんでした。
そんなことは、聞かなくとも分かります。

ふくよかでいつも威勢がよく、笑い声が大きい祖母。
その祖母が受けた衝撃、そして母が背負った悲しみ。
祖父の怒りや喪失感。

それを言葉に表すことはとても出来ません。


スポンサードリンク









夏がすぎて秋が来た時、農家だった祖父は稲刈りのために田んぼへ向かいました。
そこに、一列だけ不恰好に並んだ稲の列を見ました。
それは、息子が植えた稲たちでした。

それを見たとき、祖父はその場で泣き崩れたそうです。

春に生きていた子が秋には居ない。

その事実に、きっと祖父はずっと耐えてきたのでしょう。

一家の大黒柱として、家族を支える立場として、息子を失った悲しみを心の奥に隠して我慢してきたはずなのです。

しかし、息子が生きてきた軌跡を思いがけないところに見てしまったその時の祖父が、涙をこらえることが出来なかったということ。

それが、私の胸にも痛いほどに刺さりました。

そんな祖父は、私が生まれてすぐに癌でこの世を去りました。
ですから、私には祖父と叔父の記憶と言うものがないのです。

家族の中で頼るべき存在、愛すべき存在を早いうちに二人も亡くした祖母。
今の明るく強い祖母がどう乗り越えてきたのか。

それを聞くことは、なぜだかいけないことのような気がして今でも聞くことが出来ません。

気が強い祖母のことが、小さいときはすごく苦手でした。
きちんとしなければ怒られる、そんな気持ちでいつもピリピリしていたものです。

一度は、あまりにも祖母の家に居るのが嫌で、具合がわるくなってしまったことさえありました。

ですが、そんな祖母も年々小さくなり、いつの間にか私のほうが口でも負けないようになってしましました。
そのため、祖母が入院したときはまさかこのまま…。

という気持ちが胸をよぎりましたし、そんな時に聞いた母の弟の事実は私をなんとも言えない気持ちにさせたのでした。


海で亡くなった息子が、きっと最期に迎えに来てくれる。
その時にまた再会できることを楽しみにしている祖母。

けれども、私はまだ祖母に、息子のところに行ってほしくはありませんでした。
祖母と、亡くなった叔父には申し訳ないけれど、まだ再会するのは早すぎる、と、ずっと祈っていました。

なんとか峠を越した祖母。
しばらく入院した後、無事に家に戻ってくることができました。

私は仏壇に座り、亡くなった叔父と祖父にお礼を言いました。
そして、母にそっくりの顔で笑う「写真のおじちゃん」にお願いしました。

「まだまだ寂しいかもしれないけれど、お母さんを迎えに来ないでね。」と。
なんとなく、「写真のおじちゃん」が、「仕方ないなぁ。」と笑ったような気がしました。


必ずくるであろう最期の瞬間。

祖母がその時を迎えるとき、きっと「写真のおじちゃん」があの頃のままの姿で笑いながら迎えにくることでしょう。
死ぬことが怖くない、あの子に会えるんだからむしろ楽しみだ、と笑う祖母。

でも、出来ることなら、その祖母の笑顔をあともう少このまま見ていたいと願うのでした。


おばあさん.jpg


スポンサードリンク






nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

みぃと走った日のこと [感動]

スポンサードリンク








小さい頃から動物が好きで、特に猫が一番大好きな動物でした。
物心ついた頃にはすでに家に猫がおり、以後途切れることなく常に猫を飼っていました。
猫を撫でると血圧が下がるとか、ゴロゴロと鳴らす喉の音を聞くことで人の精神が不思議と落ち着くとか、色々な話しを耳にしたことがありますが、私は「猫はきちんと人間の言葉を理解して行動している」という確信がありました。
なので、猫の持つ不思議な力で私たちはいつも助けられているのだと信じているのです。


私が今まで飼ってきた中で、一番印象に残っている子がいます。
茶トラの雌猫で、名前を「みぃ」といいました。

みぃは普段は外に居るので、その行動範囲は私が把握できないくらい広いものでした。
ある時は小学校まで迎えに来てくれたこともありました。

たまたまみぃの行動範囲の中に小学校も含まれていて、ちょうど私の下校の時間にその付近を散歩していたというだけだったのかもしれませんが、それでも帰り道を大好きなみぃと帰るのはとても特別な想いがしたものです。
私の歩調に合わせながら、決して離れないようにして歩いてくれるみぃは、なんだか頼りになるお姉さんのようでした。


そんなある日のことです。
その日は、私の大嫌いな校内マラソン大会の日でした。
小学校を出て、3キロの道のりを走るということは何よりも走ることが苦手な私には苦行のようなものでした。
前日から雨が降ることを祈り、てるてる坊主をさかさまに吊るすと言うおまじないまでしたのに、そんな私の願いも虚しく、その日は晴れ渡った青空が誰の目にも眩しく映ったことでしょう。

嫌なことがある時は決まってお腹が痛くなる私。

キリキリと痛むお腹を抱えるようにしていると、ふと私のそばにみぃがやってきました。
不思議そうに私を見上げるみぃ。
何気なく私はみぃに話しかけました。
「みぃが一緒に走ってくれたら、私も頑張れるかもしれないのにな〜」と。

そしていよいよ、本番直前を迎えました。

気合を入れて準備運動している子、楽しそうに友達とおしゃべりをしている子、そして、羨ましいことに体調不良で見学することになっている子。
それぞれの顔を眺めながら、私はため息しか出ません。

いやだいやだと思っていても、結局は逃げ出すことが出来ないのだと思うと、もう半分どうでもいいような気持ちにさえなってくるのでした。
そして、「ばん!」というピストルの音と共に私たちは一斉に走りだしました。

最初からスピードを上げていく集団からは大分遅れて、私もよたよたと走り出しました。
流れる景色を楽しむ余裕なんかある訳がありません。

街道で応援してくれている人たちの声に耳を傾けることも出来ません。
早い段階で私の心臓はもうすでにパンクしそうなほどにバクバク言い出しました。
息をする度になんだか胸が痛いような気もします。


スポンサードリンク









つい涙ぐんでしまった私の視界に、あるものが見えました。

茶色くて小さな塊みたいなものが、道路のはじっこに見えるような…?あれは…?


それは、なんとみぃだったのです。
見間違いではありません。

いつもの見慣れた大好きなみぃが、私をじっと見ているではありませんか。
えっ!?と思った次の瞬間、みぃは私の隣にやってきて、そして並んで走り出したのです。

あの時、一緒に学校から帰った日のように、私のペースに合わせてずっと隣に並ぶように走っています。
そんな私たちの姿に気付いた人からは驚きの声が上がりました。

そして、いつの間にか、私と同じく走るのが苦手で、いつも遅れをとってしまっている他の子たちも一緒になって走っているではありませんか。


その時、私はなんとも言えない満たされたような感覚を覚えました。
一人ではないのだという安心感なのか、みんなと一緒なら頑張れる、乗り越えられるというような仲間意識なのか…。

あんなに嫌で嫌でたまらなかったマラソン大会が、その瞬間に楽しいものに思えたのです。
今まで最期まで走りきることが出来なかった子も、泣き虫で泣きながら走っていた子も、そして私も、みぃと一緒にゴールすることが出来ました。
その時に周りから湧き上がった歓声は、今も忘れることが出来ません。
そして、私たちをゴールまで導いてくれたみぃは、気が付くともう姿を消していました。


マラソン大会が終わって急いで家に帰ってみると、みぃは何事もなかったかのように私を出迎えてくれました。
いつものようにゴロゴロと甘えるように喉を鳴らしながら。


その後みぃは10年生きて、そしてふらりと姿を消してそれっきりになってしまいました。
猫は自分の死体を飼い主に見せないように、死期を悟ると姿を消すといいます。

ですが私は、みぃが姿を消してもきっといつまでも生きていてくれるような気がしているのです。
あれからもうかなりの年月が流れましたが、私と一緒に走ってくれたみぃは、きっといまでも誰かの隣に並んで走っているのではないでしょうか。
そんな風に、これからもずっと思っていたいのです。


ネコ.jpg


スポンサードリンク






タグ:ネコ 親友 感動
nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

みーちゃんと秘密基地 [感動]

スポンサードリンク








私が小学生の頃の話です。

当時、私を含む4人の仲良しグループで「秘密基地」を作りました。
使われなくなった物置小屋を発見し、そこを勝手に自分たちだけの秘密の空間にしたのです。
狭いその物置小屋には使い古されたビニールシートや古新聞が積み重ねてあり、私は自宅から内緒で毛布を持ち出して上に重ねました。

子供ながらに工夫をし、それは立派な「簡易ソファ」として使われることになりました。

私たちはその秘密基地に、漫画本やお菓子、お手紙セットなどを持ち込んで、学校から帰ると決まってそこに集まっていました。
なんとなくこの空間が私たちだけの特別な空間のような気がして、いるだけで気分が高揚したものです。
この場所のことはもちろん私たち4人だけの秘密でした。


そんなある日のことです。
他の皆がクラブ活動で遅れるということだったので、私だけが一足先に秘密基地へ向かいました。
ひとりで過ごすことなど初めてのことでしたので、なんとく緊張した面持ちで扉を開きました。
するとそこに、うごめく小さなモノを発見したのです。
一瞬驚きましたが、すぐにそれが「子猫」であることがわかりました。

私は興奮気味にその子猫に近付きました。
生後2ヶ月といったところでしょうか。

まだ産毛のような頼りない毛並みとやせ細った体。

弱々しい泣き声が急に私を不安にさせました。

とにかく早く皆を呼びにいかなくては。
そう思って飛び出そうとしたその時、扉を開けて入ってきた影とぶつかりました。
驚いてその相手の顔を見ると、それはクラスメイトのKさんだったのです。

私は「まずい人に見つかった」と思いました。

クラスで学級委員長を務めるKさんは、真面目で頑固、すぐに先生に告げ口をするということで皆から煙たがれている存在だったのです。

しどろもどろに口を開きかけた私を制し、Kさんはずんずん中に入っていきます。
そして子猫に近付くと、ポケットから子猫用の餌を取り出し、手で少しずつ子猫に与え始めたのです。


スポンサードリンク









呆然とその様子を見ている私。

すると、他のメンバーたちがやってきました。
Kさんの姿を認めると全員が「あっ!」という顔をしましたが、その足元で必死に餌を食べている子猫を発見し、パッと表情が明るくなりました。
どうやら、その子猫を発見し、ここまで連れてきたのはKさんのようでした。
以前から私たちがここに出入りしている姿を目撃していたKさん。
子猫をかくまうのに最適な場所だと選んだのだということでした。


「親に言ったら絶対保健所に連れて行かれてしまうから、ここで飼おうと思う。」と、とんでもないことを口にするではありませんか。
そんなことが子供だけで出来るわけがない。
意義を唱えようとした私でしたが、私以外の全員がみんな「そうしようそうしよう」とその気になってしまったのです。
結局私の不安や疑問が他のメンバーに伝わることはなく、そのまま秘密基地で子猫をかくまうことになったのでした。


餌は飼い猫が居るKさんが毎回持ってきてくれました。
私たちは毎日学校から急いで帰ってきては秘密基地へ向かいました。
最初はしぶっていた私自身、子猫に会うのが楽しみになってしまったのです。

私たちはその子に「みーちゃん」と名前を付けました。

いつの間にかKさんが私たちと一緒にいることに違和感を感じなくなり、学校でも自然と一緒に行動するようになっていきました。
そんな私達の変化に、周りの皆は首をひねっているようでした。
それがまた楽しくもあったのです。

みーちゃんを秘密基地で飼うようになって2週間ほど経った頃でしょうか。
みーちゃんがしょっちゅうクシャミをするようになったのです。

気付くと目の周りに大量の目ヤニがでるようになり、両目が開けなくなってしまいました。
背中の毛が抜けてきて、餌もあまり口にしないようになってしまいました。

おそらく、何かの病気にかかってしまったのでしょう。
私たちはどうしたらいいのか分からなくなってしまいました。
それでも親に打ち明けることが出来ず、少しずつ弱っていくみーちゃんを毎日眺めていることしか出来ませんでした。


そしてある日。
みーちゃんは秘密基地のソファの上で冷たくなってしまっていました。
あんなに柔らかかった体が、まるで石の様に硬くなってしまっています。
おそらく、私にとっては初めて見る「死」でした。


私もKさんも、グループの全員が大きな声を出して泣きました。
そして、自分たちの非力さを思い知ったのです。
大きな後悔の波が押し寄せてくるようでした。


私たちはその後、小さなみーちゃんの体を綺麗なお菓子の缶に横たえ、周りをたくさんの花で囲みました。
それを秘密基地の隣に埋め、それ以後、秘密基地を利用することはありませんでした。
秘密基地の隣に眠る小さなみーちゃんと共に、私たちはそれらの「秘密」に蓋をしたのでした。


それから私たちは大人になり、今でもKさんを含む全員と連絡を取り合っています。
あの時のみーちゃんの切ない思い出は、これからも私達の胸に残っていることでしょう。


子猫.jpg


スポンサードリンク






nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

お局先輩 [感動]

スポンサードリンク








社会人になって初めての就職先は、自宅からそう遠くない場所にある小さな下請け会社でした。

私はそこの事務員として採用されたのです。

学生の頃とは違って個人の責任の重さというものを日々感じながら、それでもどうにか会社にも仕事内容にも慣れてきた頃。
私には、どうしても馴染めない先輩がいたのです。

その先輩は、おそらく私の母親と同じくらいの年齢で、ふくよかな体が遠くからでも分かるような外見と、大きな声が特徴の女性でした。
影で「お局さま」と呼ばれる先輩は、どうやら多くの社員たちの間で煙たがられる存在のようでした。

細かいことでちくちく小言をいうような人でしたし、特に私くらいの年代の社員のことをまるで目の敵にでもしているかのように、よく捕まえては小一時間も説教されるのです。


もちろん、私もそのターゲットの一人でした。
服装から髪型、メイクにまで口を出してくる先輩に、私はある時涙を流してしまったのです。
そんな私の顔を見て、先輩はひるむどころか更にきつい口調で「私はあなたが憎くて言ってるんじゃないの、あなたが後々困らないように、あなたの為を思って言ってるの。勘違いされては困る」とピシャリ。

いくら仕事内容が楽しくても、他の皆とうまく出来ていても、この先輩ひとりの為に私はストレスの多い日々を送っていたのでした。
家に帰って母親に泣きついても、「まだ社会人になったばかりなんだから我慢して頑張りなさい」とあしらわれるばかり。
その頃は恋人も居ませんでしたので、誰に寄りかかればいいのかわからず、ただひとりで悶々としていたのでした。


そんな先輩なのですが、時々物凄く暗い表情をしていることがあることに気が付きました。
いくらお局様とは言え、まぁ人間ですから、体調が悪かったりすることもあるでしょう。
むしろそんな時は私たちに対する風当たりもソフトになりますので、かえって有難いようなものでした。

先輩と同年代の社員の人たちはなぜか先輩には優しいようで、そんな時はとても気遣っているのが見て取れました。
それもなんだか納得がいかないことです。
いくら年が近いからと言って、普段のお局様の厳しすぎる様子を見ているはず。

所詮、長いものには巻かれるタイプの人が多いんだ…。
そんな風にも思え、早い段階で辞めてしまったほうが楽かもしれないな、と考え始めてたりしていました。


そんなある日のことです。
いつものように仕事をしていると、受付にいる社員の一人が慌てたように部屋に駆け込んできて、まっすぐにお局先輩の元へとやってきました。


スポンサードリンク









なにやら耳元で伝えると、見る見るうちにお局先輩の顔が紅潮していきました。
そして「ああ…本当に!」と声に出すと、大きな体を揺らしながらバタバタと出て行ってしまったのです。
普段のお局先輩らしからぬ様子に私は驚いてしまい、思わずドアの向こうを覗きました。(一番ドアに近いところのデスクにいることが幸いしました)


玄関の前で、先輩の肩が小刻みに震えているのが分かります。
泣いているようです。
まさかお局先輩が?信じられない思いで見ていると、大きな先輩の体の向こうに、ほっそりとした人影を見つけました。

よく目を凝らしてみてみると、どうやらそれは私と同じくらいの年代の女の人のようです。
やせ細った腕が半そでから覗いています。
背中まである長い髪は、艶を失いパサパサしています。

なんだかあまり健康とは言えないような外見だなぁと思いながら見ていると、ぽん、と肩を叩かれました。
慌てて振り返ると、いつもお局先輩と仲良くしているもう一人の先輩でした。

いけない、叱られる、と身構えていると、先輩は小さな声で私にこう教えてくれたのです。


お局先輩には双子の娘さんがいたのですが、一年前にその片割れが自殺してしまったのだそうです。
理由は失恋。
しかも、相手は自分の双子の妹のことが好きだということでフラれてしまったのです。

そのことを気に病んだ残された娘さんは精神を病んでしまい、自宅から一歩も外に出ることが出来なくなりました。
姉を追って何度も何度も自殺未遂を繰り返し、時には幻覚や幻聴に襲われることもあったそうです。

そんな娘さんを、お局先輩は根気強く看病し、時に諭し、時に包むようにして見守っていたのです。
私たちに必要以上に厳しく当たるのは、自分の亡くなった娘さん、生きている娘さんと重ね合わせて見ていたからだったのです。

あの子のように死んでほしくない、心を壊してほしくない、そんな思いから、どうしても厳しく接するようになってしまったのだとのこと。
時々、他の先輩たちに「若い子たちにどう接していいか分からない、優しくしてしまうのが怖い」と、よく相談していたのだとか。


娘さんは少しずつ少しずつ回復し、こうして母親の会社にまで来られるようになったのです。
誰の力も借りず、ひとりで。
それがどれだけ大きなことなのか。

先輩はそう言いながら、そっと涙をぬぐいました。それまでただただ怖いだけのお局先輩でしたが、そんな背景を知り、今までのすべてがとても有難く思えてきました。
大きな体を揺らして泣いているお局先輩と、その向こうで優しく微笑む娘さんの姿に、私もいつの間にか涙を流していたのでした。


お局.jpg


スポンサードリンク






タグ:感動 先輩
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

おじいさんの鶴 [感動]

スポンサードリンク








僕が小学生の頃の話です。
いわゆる「悪ガキグループ」五人組の中の一人だった僕。
とくに暴力を振るうとか、陰湿ないじめをするとかいうのではなくて、例えば黒板にデカデカとテストの答えを書いてのカンニングをしたり(黒板を背にする先生は意外と気が付かないという)、ありったけの蛙を捕まえてきて昇降口玄関に放したり、窓から外に向けてオシッコを飛ばして競争したり…。

そんなくだらないイタズラをして楽しんでいた、絵に描いたような「昔のガキ大将グループ」だったのです。

クラスの仲間たちもそんな僕たちを半分諦めたような、あきれたような様子で見ている子がほとんど。
先生も、「またお前らか!」と怒鳴り声を上げることに慣れてしまったような様子だった気がします。
そんな毎日を送りながら、僕たちはだいたいいつも一緒に行動していました。

帰りは当然、道草をしながら帰るので、家に着くのが大分遅くなってしまいます。
それから宿題をやったりご飯を食べたり、明日の準備などなど…。
子供ながらにやることは色々あるもので、毎日母親からは小言を言われていました。

「もう○○くんたちとは遊んじゃだめ!」と言われることも少なくありませんでしたが、そんなことで付き合うことを辞めるような僕たちではありません。
かといって行動を改めるでもなく、ほとほと両親は頭を悩ませていたように思います。
今ではその頃が懐かしいと、年老いた両親は笑っていますが。


そんなある日のこと。
いつものようにダラダラと行きつもどりつしながら下校の途についていた僕たち。

今日はいつもと違うコースを帰ろうということになり、普段の道筋を外れて違う道を通って帰ることになったのです。
その日あった出来事や、テレビゲームの話をしながら帰っていると、大きな川に出ました。

ここは雨が降った後は水嵩が増し、流れが急になる川です。
その川の中央に、なんだか老人らしき人影が見えたのです。
かがみこむようにして川の中に手を突っ込んでいる老人。
僕たちは慌ててその老人の下へ向かいました。

まるで入水自殺か、はたまたおぼれかけているように映ったのです。


近付いてみると、八十歳に届くかどうか、というくらいの年齢のおじいさんでした。
なにやらぶつぶつと独り言を言いながら水の中に両腕を肘まで突っ込んでいます。

初めは岸辺から声をかけるだけの僕たちでしたが、流れが穏やかなことを確認し、一番体格のいいRくんがざぶざぶと川を渡り、おじいさんを引き寄せてきました。
その首には名札が掛けられていて、そこには住所と電話番号、名前が書いてありました。

ちょうど学校の近くの住所が書いてあることが分かり、また、苗字も珍しいものでしたので、すぐに家を見つけることができました。
その家の前では、どうやら家族らしい人たちがオロオロしている姿が見られました。

おじいさんと僕たちの姿を発見し、安堵の表情が広がっていったその女の人は、おじいさんの娘さんでした。


スポンサードリンク








おじいさんはひどい認知症を患っており、時折ふらりと居なくなってしまうのだと、その娘さんは子供の僕たちに丁寧に教えてくれました。
行動も予測が出来ないらしく、川に行く理由もまったくわからないとのこと。


幼いながらに、認知症ってやっかいなんだな、と感じました。
その後も時々、帰り道でそのおじいさんを見つけました。

見た目は普通のおじいさんなので、まさか徘徊だとは誰も気付かないのでしょう。
少し様子がおかしいかな?と感じる程度で、気にも留めないようでした。
それでも僕たちはおじいさんの事情を一応知っているので、連れ帰っては娘さんにお礼を言われるのでした。


そんなある日、ふとそのおじいさんの家の前を通ったときのこと。
どうやら、お葬式の準備がされているようでした。
家の前に提灯が出してあるのです。

まさかあのおじいさんが…?と気になったぼくは、そっと玄関まで近付いていきました。
するとその時、おじいさんによく似た顔の男の人が出てきて、怪訝そうな顔で僕を見ました。

「もしかして、いつも助けてくれていた子達のひとり?」と聞かれ、うなずく僕を中に入れてくれました。


祭壇には、僕が見知っているおじいさんより少し若く、生き生きとした顔をしたおじいさんの写真が飾ってありました。
仏壇のはじっこに、小さな折鶴が五羽、糸に通されて飾ってあります。
そこに娘さんがやってきました。

その五羽の鶴は、僕たちと出会ってからおじいさんが作ったのだそうです。

それまでそんなことをしたことはなかったのに、まるで僕たちにあげるつもりで作っていたかのように、人数分の五羽の鶴。


僕は、その鶴を娘さんから頂いて帰りました。
なんだか切ないような気持ちがこみ上げてきて、夜中にひとりでおじいさんを思い出してちょっと泣きました。


今でも、僕たち五人が集まると、必ずあのおじいさんの話になります。
そして、五人中三人が介護の仕事に就いたことは、きっとあの時の経験があるからなんじゃないかな、と思っているのでした。


おじいさん.JPG


スポンサードリンク






nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

老人ホームへのボランティア [感動]

スポンサードリンク








私たちは、いわゆる「戦争を知らない世代」と言われています。
生まれたときからなんでも身の回りに揃っていて、何不自由なくここまで過ごして来ることができました。
どうにも出来ないような天災を除き、個人的な不運やトラブル、ちょっとした小さな幸せに一喜一憂し、時には「私って駄目な人間だ」「私には何もないんだ」なんていうセンチメンタルな気持ちに悩んだこともあますが、総じて「幸せ」な日々を過ごして来ることができたと思っています。


ただ、そんな毎日を送れること、当たり前のように明日がくるということが、実は誰かの犠牲の積み重ねの上にあるのだと言うことも確かなのではないでしょうか。


まだ私が学生だった頃、学校の課外活動の一環として老人ホームへの慰問やボランティアにお邪魔する機会が多くありました。
小さい頃からおじいちゃん、おばあちゃん子だった私ですが、老人ホームのあの独特の雰囲気や匂い、なんとなく自分たちの過ごす日常とはかけ離れた世界のような印象を受け、その活動があまり得意とは言えませんでした。


学生の私たちに出来ることと言えば、施設内のちょっとした掃除や洗濯の手伝い、そして、入居者たちの話し相手になることでした。
掃除や洗濯なんかはいくらでも出来ましたが、入居者たちを相手に過ごす時間は私にとってとても苦痛でした。
まともに会話が成り立つ相手ではあるのですが、どうしても同じ話の繰り返しだったり、急に感極まって泣き出してしまわれたりするとどうしていいかまったく分からずパニックです。

特に困ってしまったのが、「戦争」の話をされたときです。

テレビの再現ドラマや、毎年終戦記念日になると組まれる特番で何度か見たことがあるので、戦争の悲惨さや恐ろしさ、そういったことに対しては私なりに理解しているつもりでした。
しかし、実際に経験した人から当時の話を聞くと、なんだか分からないけれど「違和感」を感じてしまうのです。
このおじいちゃんがそんな勇ましいことを?と、どうしても結びつかないのです。

今、こうして誰かの手を借りなければ身の回りのことが出来ない人たちが、本当に…と。
きっと、心のどこかで私はひとつの「物語」のように受け取ってしまっていた部分があるのだと、今にして思います。


そんなある時、私たち学生は、入居者の方々、スタッフの方々に向けて歌の発表をする機会を設けてもらいました。
話し相手になるよりはこちらのほうが気が楽だと思い、その日は随分リラックスして参加することが出来た私。
家に帰ったらあのテレビ番組を見ることができる、なんてのんきに考えていました。

私たちが歌ったのは、誰もが口ずさめるような童謡です。
入居者の多くが手拍子をしながら聴いてくれていましたが、ある人が途中から歌を口ずさみながら涙を流していることに気が付きました。
周りをよく見ると、そのような人がたくさんいるのです。
またいつものように何か思い出したのだろう、いつものことだ…と思っていました。


スポンサードリンク








けれども、その施設からの帰り道で、同行していた先生からこんな話を聞きました。
泣いている入居者の中でひとり、違った意味で泣いていた方がいたのだということ。

多くの人が昔を懐かしみ、思い出し、切なくなって泣いている中、その人だけは私たち学生に対して「悔しい」という想いを抱いて泣いていたのだのというのです。

自分の子供が生きられなかった年月を生きている私たちに対する悔しさ。
歌を歌うことさえも注意されていたあの頃、歌は何よりも自分の支えだった。

その大切な歌を、何の気持ちも込めずに歌う私たちへの怒り。
その方は気が付いていたのだそうです。
私たち学生の多くが、「仕方なしにボランティアに来ている」という事実に。

そして、もしこれからもそんな気持ちなら、もう二度と来ないで欲しいと、何度も何度も先生とスタッフの皆さんに掛け合っていたのだそうです。


そのことを聞いて、私は心底恥ずかしい気持ちになりました。

すべて見抜かれていたのです。
二度と来ないで欲しいと拒否までされたのです。


私たち学生の多くが、そのことを聞いてとても深く反省しました。
気持ちを入れ替える必要性を、素直に感じたのです。


その後も私たちは慰問を続けましたが、今までとは違う気持ちでその施設を訪れるようになりました。
私たちに対してどの方が悔しい想いを抱いたのか、それは特定することは出来ません。

ですが、誰に対してもそれまでのようないい加減な気持ちで接することはなくなりました。
すると、不思議なことに、今までわずらわしいと感じていた様々なことがとても暖かく感じられるようになったのです。

手を握られれば嬉しいと思い、泣いている方を見ると胸がきゅっと痛みました。
それは同情ではなく、心が近付いた証拠なのだと、先生は私たちに教えてくれました。


この人たちが居たから今の私たちが生きているんだということ。
感謝や敬意、そして、どんなに歳をとって行動がのんびりになってしまっても、尊敬の気持ちを持って接することの大切さは、一緒に過ごしてみなければわからないことなのかもしれません。


老人ホーム.jpg


スポンサードリンク






nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

雪ころがしの雪だるま [感動]

スポンサードリンク








これは私の友達Rちゃんが経験したと言う話です。

Rちゃんは小さい頃から体が弱く、すぐに高熱を出したりしていました。

遠足や運動会はほとんど見学。
まり入れなら大丈夫だろうと思って参加すると、運動会が終わる頃には顔色が真っ青になって保健室へ・・というようなことばかりだったそうです。
生まれてすぐに大手術を経験していることもあり、Rちゃんのご両親はまるで真綿にくるむようにしてRちゃんを大事に大事に育ててくれていた様子。
それがRちゃんには時にとても重苦しく、そして煩わしく思えてならなかったそうです。

私は小さい頃から風邪を引くのでさえ年に数回程度という「健康優良児」でしたので、ちょっぴりRちゃんが羨ましくも思えました。


そんなある冬のこと。
Rちゃんは急に高熱を出し、何日も何日も熱が下がらないという日々を送っていました。
数日の入院にてようやく落ち着き、無事退院できたものの、自宅療養を余儀なくされてしまったのです。

その年は珍しくRちゃんが住んでいる町にとって大雪の年で、外は一面美しい雪景色が広がりました。
あんなにどこまでも広がる銀世界を見たのは初めてだったと、Rちゃんは嬉しそうに教えてくれました。

私は東北出身なので、雪を見るのも嫌なくらいなのですが…。
とにかく、そんな雪がとても魅力的に見えたのだそうです。


Rちゃんはご両親にお願いしました。
一緒に雪だるまを作りたい、と。

小さい頃に大好きだった雪だるまが出てくる絵本。
あの絵本に出てくるような、大きくて優しそうな雪だるまを作りたい。
そうおねがいしたRちゃん。

ですが、当然ながらご両親がそれを許してくれるはずがありません。

何日も何日も高熱で意識が混濁していた娘を、こんな雪の中に出すでしょうか。
それが意地悪ではないことは、大人になった今なら分かりますが、当時はまだまだ幼かったRちゃん。
お父さんとお母さんは自分がまた熱を出すと面倒だから許してくれないんだ。

そんな風に思ってしまっていたんだそうです。

ご両親の気持ちも、Rちゃんの気持ちもどちらも分かります。
お互いの気持ちがすれ違うということは、背景にどんな理由があったとしても切ないものです。

まして愛してやまない愛娘の些細な願いもかなえてあげられないとなると、ご両親はきっと身を裂かれるような気持ちにもなったでしょう。

ですが、Rちゃんはその時、自分の弱い体は両親のせいだと腹を立て、しばらく口を利かなくなってしまったのだそうです。


スポンサードリンク








話しかけられても完全無視。
それでもご両親は怒ることもなく、ただただ気まずい空気の中で家族は過ごしたそうです。
いつまでも腹の虫が収まらないRちゃんでしたが、ある日妙なことに気が付きました。
Rちゃんの部屋の窓から見える花壇のところに、小さな雪のボールがころがっているのです。

その時のことを、Rちゃんは、「フンころがしみたいに、雪ころがしっていう虫がいるのかと思った」と笑いながら教えてくれました。
雪ころがしという虫を思い浮かべるあたりがRちゃんらしいところです。

その雪のボールは毎日そこにあり、なんとなく少しずつ大きくなっているようでした。

雪ころがしがころがしているんだなぁと思うとなんとなく面白くて、Rちゃんはそのボールを毎日観察するようになりました。


数日間変化が無いときもあれば、急に大きくなったようなときも。
そして気が付くと、そのボールはとても「雪ころがし」という虫が転がせるような大きさではなくなっていたのです。

それはまだまだ大きくなっていきました。

そして、ある日その大きなボールの隣に、また小さな雪のボールが生まれていたのです。
その小さなボールも少しずつ大きくなっていきました。

そしてとうとうある日、それはふたつ重なり、大きな大きな雪だるまの形になりました。

その翌日には片方に目が入り、もう片方の目も入りました。
鼻の部分にはオレンジ色のにんじんが刺さり、微笑む形に口も出来上がりました。

最後にバケツの帽子をかぶったその雪だるまは、昔読んだ絵本の雪だるまにそっくりだったそうです。


Rちゃんは、途中からすでに気が付いていました。

その雪だるまは、毎日遅くに仕事から帰ってきたお父さんが少しずつ少しずつ作ってくれているのだということに。
自分が出来ない変わりに、毎日疲れて帰ってきているはずなのに、夜中に一生懸命に雪だまを転がしていることに。


出来上がった雪だるまは、緑色のマフラーを巻いていました。
それはRちゃんが使わなくなったマフラーです。
それを少し編み足して雪だるまに巻いてくれたのはお母さんでしょう。
両親の切ない気持ちを思うと、なんだか聞いていた私まで胸がきゅんとなってしまいました。


それから数年後、Rちゃんはもうあの時のように体調を崩すこともなくなり、すっかり元気に成長しました。
毎年ご両親とその時の雪だるまの話をしているそうです。

「雪ころがし」という虫の話は、もう欠かせない笑い話になっているとのこと。
いつか私もRちゃんと一緒に「雪ころがし」になって大きな大きな雪だるまをつくりたいなぁと思っています。


雪だるま.jpg


スポンサードリンク






nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

車椅子と不良 [感動]

スポンサードリンク








体に障がいを持つ人と関わる機会というものは、案外あるようでないものではないでしょうか。

なんとなく自分とはあまり関係の無い話だと、テレビで見るような話だと思っている人も少なくないかもしれません。
私も中学まではそういった気持ちでいました。
周りは当たり前のように皆五体満足で、特に体が弱かったりという仲間もいませんでした。
一緒に遊ぶこと、出かけること、学ぶことが当たり前。
皆一緒が当たり前。
そんな感覚で過ごしていました。

そんな意識が変わったのは、高校に入学してからのことです。

こんな身近に障がいを持つ人が現れるとは思ってもみませんでした。


私が入学したのは私立の女子高です。
歴史ある古い校舎と、校門に建てられた設立者の銅像が目印の、いわゆる「お嬢様学校」でした。

挨拶や目上の方への対応にはとても厳しい学校で、淑女としての在り方、佇まいを細かく指導されていました。
そんな学校ではありましたが、やはりどこにでもいわゆる「不良」は居るもので、当時も同学年に数名「怖い雰囲気」を醸し出している人がいました。

髪型や制服の着方、授業中の態度や先生方への接し方など、事あるごとに注意されている様子を、いつも遠巻きに眺めていたものです。


そんなある日、私のクラスに転校生がやって来ました。
その子は、一度見たら忘れられないような特徴のある子でした。
なぜなら、車椅子に乗っていたからです。

肌は青白く少しぽっちゃりとした外見と、あまり笑わなそうな暗いイメージと、無機質な車椅子のその様子は瞬く間に話題になってしまいました。
当時はバリアフリーが今のように充実しておらず、私の学校にもそのような設備は整っていませんでした。


スポンサードリンク









幼い頃に事故で両足の機能を失ってしまったというMさんは身の回りのことはほとんど自分で出来るようでしたが、唯一階段を上ったり降りたりする際は人の手を借りなければなりません。

数人で車椅子を抱えて移動するのです。

初めのころは主に男の先生がその役割をしていましたが、Mさんがクラスに馴染んでくるとクラスメイトたちが交代で手伝うことになりました。

なんせ車椅子を見ること自体が初めての私たち。
戸惑いながら恐る恐るといった感じで手伝っていたのですが、徐々にそれが「私達の使命」のように思えてきました。
皆が率先して車椅子を抱える役割を果たそうとしていましたが、クラス内の「不良」と呼ばれているメンバーたちは決して手伝おうとしませんでした。
それどころか、「遅い」「邪魔」という言葉を口に出すことさえあったのです。

私達のほとんどがそんな彼女たちに対して憤りを感じていましたが、誰も直接注意することはありませんでした。

Mさんも、「私のせいで嫌な思いをさせている」と、申し訳なさそうに俯きながら階段を抱えられていました。


そうして数ヶ月が過ぎた頃、学校の入り口にある短い階段に手作りのスロープが設置されたのです。
技術の先生の手作りの木のスロープ。

それが設置されたということ自体が私たちにとっては大ニュースでした。
まだまだ介助しなければならない場面のほうが多いけれど、そのスロープが設置された一箇所だけは自分で上ることが出来ると、Mさんは顔を綻ばせて喜んでいました。
Mさんにとって、クラスメイトに迷惑をかけているという気持ちはどうしてもあるようで、玄関だけは自分で…。
という意思でそこを通っているようでした。

私たちも、あえてその部分だけは手を貸さないようになりました。


そんなある日、部活ですっかり遅くなって帰ろうとしていたときのことです。
玄関で靴を履き替えようとしていると、例の不良グループがスロープに腰をかけて雑談している様子が目に入りました。
出来るだけ関わりたくないメンバーでしたので、出るに出れずにいた私。
彼女たちが早くそこから去ってくれないだろうかとヤキモキしていると、そこに技術の先生が通りかかりました。
彼女たちを注意してくれることを祈りながら様子を見ていると、こんな言葉が聞こえてきました。


「先生、これ(スロープ)作ってくれてありがとう。でもここちょっと歪んでてだめだよ」


そう言ってスロープの不備を指摘しているのです。
思わず身を乗り出すようにして聞いてみると、なんと、そのスロープの設置を学校側に打診したのが彼女たちだったのです。
手伝ってあげるだけでは女子の力では限界がある。
もっと学校側に出来ることがあるはずだ、と、彼女たちが訴えたのだということがわかりました。
私たちが、誰よりMさんが一番喜び、必要としていたものを生み出すきっかけが彼女たちの声だったのです。
そして、「私たちが頼んだことは、絶対に誰にも言わないように」と念を押している声まで聞こえて来ました。


それは彼女たちの精一杯の応援と優しさ、そして強がりだったのでしょう。
その後も彼女たちがMさんを手伝うようなことはありませんでしたし、相変わらずでしたが、もう彼女たちを「不良」という目で見ることはありませんでした。
誰よりも優しく、恥ずかしがり屋だということが分かってから、自分の中でも何かが変わったようでした。
そして、ただ手を貸すだけが優しさではないのだということを彼女たちに教わったような気がしたのです。


女子高生.jpg


スポンサードリンク






nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感
前の10件 | -

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。

×

この広告は1年以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。